倭寇来襲に対する砲台跡が今でも保存されている?The turret traces against the Japanese pirate attack are still preserved.

倭寇と聞いて日本人なら中学校の歴史で勉強しているはずですが、日本国内に住んでいる場合、倭寇とはどのようなものなのか考える機会も無いと思う。

中国に住んで実際に倭寇来襲に対する砲台跡を見たことがなかったが、実際に見ることができたので、報告します。

断っておきますが、日中の歴史認識の差異はどうしてもありますので、ご了承ください。所在地については==>http://naokisu.com/?p=2432 を参照ください。

八字山村に砲台跡がある。八字山村は乾江村に隣接する村である。
八字山村の片隅に砲台跡が残っている。砲台跡に登り周りを見てみるととても見渡しがいい。
砲台跡の砦側面に1984年に地元政府が保存したことが記載されている。

この砲台跡は確かに歴史のあるもののように見えるが、外壁は1980年代に新しく修復されたものである。

倭寇については前期倭寇、後期倭寇に区別されるらしい。

前期倭寇=>14世紀前後の出没
後期倭寇=>16世紀頃にに出没
倭寇についてググってみた結果

(wikipediaより抜粋)後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。後期倭寇の活動は交易と襲撃の両方、いわゆる武装海商である[20]。主な活動地域は広く中国沿岸であり、また台湾(当時未開の地であった)や海南島の沿岸にも進出し活動拠点とした[20]。また当時琉球王国朝貢貿易船やその版図(奄美先島含む)も襲撃あるいは拠点化しているが、しばしば琉球王府に撃退されている。また当時、日本の石見銀山から産出された純度の高い銀も私貿易の資金源であった[20]

倭寇が出没していた分布図。こんなに広大な地域に出没していたのか?
中国百度より抜粋した倭寇の想像図。まるで海賊である。
日本海で活躍していた、北前船に少しだけ似ていると思う。

これは私の推測・推論

当時、日本は関ケ原の戦いが終わり、多くの武士が失業してしまっていたので、海外に活路を見出した少数の武士もいた。現に東南アジアではスペインが日本の武士を傭兵として雇い入れ、現地の植民地経営に従事させていたというNHKの番組を見たことがある。

 しかし、当時の日本人口は推定約1,200万人、中国の人口は約3億人。なんと日本の30倍近くの人口。中国は当たり前だが、当時から大国であることがわかる。

 日本の国土の約20倍を有する中国、30倍の人口を有する中国を小国の日本人が海賊となって攻めることは無理だと思うのだが、、、、

 中国側の資料にも倭寇について記載がある。後期倭寇の大部分は中国人が倭寇を装って、中国沿海部に出没していたというのである。もし、海外から本当に日本人が中国沿岸に来て、水先案内人もおらず、土地勘もなく、中国沿海部をあらしまわれるとは思えない。必ず、現地の地理・状況に詳しい人達が必要である。

砲台跡付近に廟がある。廟があるのは村人が倭寇との戦争勝利を祈願して建設されたとのこと。
廟、砲台跡の周りにはガシュマルの木があり、砲台跡を覆っている。それだけ、年月が経過しているということ。
昔からある建物。窓枠は洋風の形状で丸くなっている。大学の先生に聞いてみると当時、明朝よりフランス人が来ていたので、その影響を受けているということらしい。欧米列強は早くから植民地経営のために東南アジア、中国にきていたことがわかります。こんな辺鄙な村にまで来ていたとは驚きです。

裏話。

砲台跡は明らかに最近、建設されたもの。

古い砲台跡を覆う形で新しく作られた可能性有り。

この文物保護単位(責任部門)は合浦県政府関係者

当時、1984年に砲台跡を保護時、再建設された。

当時の政府担当者はまだ健在だと思うが、中国独特の面子の関係もあり、本当のことを調査・原因究明するのは困難であると考えます。本当に調査するとケンカとなる。

 1600年代に作られた砲台跡が今でも残存していることについて日本人の誰も知らない。今回見ることができて感激しました。(もしかして日本人で始めた見た者かもしれない。)

 海岸からこんな内陸部まで倭寇が進出していたことは驚きです。かなりの大規模な集団が付近の村を荒らし回っていたことを想像される。このあたりには他にも砲台跡が残存しており、大規模な集団が広範囲に渡り来ていたことがわかる。

また、このあたり一帯は豊かで裕福な地域であったこともわかる。

このようなきれいなところでも約400年前は倭寇といわれている人達が来ていたのですね。感慨深いです。