卵チャーハンを食べた。中国ではタブー?

卵チャーハンの動画を撮影した。
この動画をHK在住のKさんに見てもらったところ、朝鮮戦争時に卵チャーハンのことはタブーだということを聞いたので、ググってみた。

卵チャーハンの作り方はかなりダイナミックである。

下記は東洋証券主席エコノミストの杉野光男さんが「巨竜のあくび」というコラムで発表した内容。

===引用始まり

空爆とチャーハン」

共産主義とは平等を愛する思想のはずだが、中華人民共和国において、偉大な指導者の子弟のなかに、
ひとも羨む破格の出世を遂げる方々が極めて多いのは、まぎれもない事実である。
たとえば改革開放の父・鄧小平と彼を支えた元老たち、そしてポスト鄧の指導者集団を構成した、江沢民、李鵬、朱鎔基、温家宝、胡錦濤・・・彼らの子弟の多くが、IT 業界、電力業界、金融機関、行政府等で枢要なポストに就任している。
インターネットで検索したらすぐに判明するが、「大唐国際発電」、「華能国際電力」、「中国国際金融股份」、「中信集団」、「国家開発銀行」など、中国を代表する大企業の、過去の経営者のなかは、かつて国家最高指導者、及びそれに近いポストを勤めた人物たちの子弟が、ぞろぞろと登場する。
子弟たちの多くが生来行政や実務に優れた才を有していたという一面も確かにある。その証拠に米国の
一流大学で、修士や博士の学位を取得した人は珍しくない。でも米国への留学費用は誰が負担したのか?
中国でハーバードやスタンフォードなどの大学院に入学できるほど金銭的な余裕のある中国人は、極めて
少ないはずだ。中国の起業家や一部ビジネスマンのなかに、高収入を得ている人物は多いが、指導者級の公務員の年収は極めて低い。習近平主席の年収は邦貨一千万円にも届かないと云われている。
さて、そんなケチ臭い話はここまでにして、新中国 70 年の歴史のなかで、そのような高級幹部子弟たちとは比較にならないほど、破格の出世を遂げた人物が二人いる。
一人は毛沢東の甥(実弟の息子)の毛遠新(1941~)、27 歳の若さで遼寧省革命委員会の副主任となり、毛沢東が亡くなる直前には「聯絡員」の肩書で、毛沢東と政治局との調整役を務めた。でも最後は毛沢東の逝去と共に、四人組に連座して失脚し、懲役 17 年の刑を受けた。
もう一人は全盛期に「毛主席の最も親密な戦友にして、主席の後継者」と云われた林彪・党副主席の長男の林立果(1945~71)。彼の出世は更に凄まじく、24 歳で空軍司令部・弁公室副主任(兼)作戦部副部長に就任した。でも彼も、父親の毛沢東暗殺計画に加担した謀議が発覚し、トライデント旅客機で海外逃亡中に、モンゴル高原に墜死した。
では、なぜ毛沢東の甥が破格の出世を遂げることができたかと云えば、文化大革命が始まった60年代に、毛沢東にとって、自分の後継者となり得る男性の親族が毛遠新しかいなかったからである。
毛沢東は 4 回結婚し、10 人前後の子供が生まれたようだが、建国時に生き残っていたのは楊開慧(2 番
目の妻)との間に生まれた長男・毛岸英(1922~50)と次男・毛岸青(23~2007)、賀子珍(3 番目)との間に生まれた李敏(女 36~)、そして江青(4 番目)との間に生まれた李訥(女 40~)の 4 人のみであった。
毛沢東の頭のなかに、女性の後継者という発想はなく、後継候補は長男・次男の二人となるはずだが、
次男は重い精神的障害を負っていたので、消去法で毛沢東の期待は長男の毛岸英ひとりにかけられることになった。しかし不幸なことに、彼は 1950 年から始まった朝鮮戦争で戦死してしまう。

1950 年 6 月から始まった朝鮮戦争は当初、朝鮮人民軍が優勢であったが、マッカーサー率いる国連軍
(実質米軍)が、仁川へ逆上陸を成功させたことにより形勢は逆転し、国連軍は平壌を占領し、部隊の一部は中朝国境の鴨緑江にまで達した。前年に成立したばかりの中華人民共和国は、当初介入に否定的だったが、国連軍が越境の勢いを見せたため参戦を決意する。
しかし中国の正規軍を派遣すると、中ソ友好同盟相互援助条約が発効し、中ソを巻き込んだ第三次世界
大戦が勃発する可能性があったので、参戦部隊総勢 80 万人、司令官は人民解放軍トップの彭徳懐将軍と
いうオールチャイナの陣容にも拘わらず、義勇兵であるとして「人民志願軍」の名称にした。
若い頃ソ連で過ごし、ソ連で入党し、ポーランドでの独ソ戦にも参加した血気盛んな毛岸英は、父の許可を得て朝鮮戦争に出兵し、ロシア語通訳として幕僚入りし、彭徳懐の傍で勤務することになった。
彼が毛主席の実子であることは、彭徳懐とその側近のみが知る秘密だったようだが、幕僚のなかには、
単なる通訳なのに上官に向かって作戦を説いたり、彭徳懐が中国将棋で「待った」を掛けたら、露骨に嫌な顔をしたりするなど、その下っ端らしからぬ振る舞いに不審を抱いた者もいたようだ。
そんなある日、北朝鮮から彭徳懐に慰問品として、戦場では極めて貴重な鶏卵が届いた。当時の幕僚が
書いた回顧録によると、ある日朝寝坊して腹が減っていた毛岸英は、火気厳禁の規則を無視して、仲間に将軍の部屋のストーブで、卵入りの炒飯を作るよう命じた。
建物からチャーハンを炒める白煙が出ているのに気付いた參謀は、慌てて毛岸英に「敵襲の危険がある
からすぐ火を消せ」と命じたが、彼は「チャーハンができ次第消すから心配するな、あっちへ行け」と云った。その直後に米軍の B26 爆撃機が、ナパーム弾を司令部に投下し、彭徳懐たちは防空壕に避難していて難を逃れたが、毛岸英たちは逃げ遅れ戦死した。
これって、明らかに眉唾情報だと筆者は考えるけど、当時現場にいた幕僚のなかに、こう証言している人がいるのは事実だ。そんなわけで中国を批判する一部ネチズンたちは、11月25日は「卵チャーハンの日」だと囃し立てている。そのココロは、毛沢東の長男が戦死したために、北朝鮮や台湾、シンガポールのような親から子への禅譲が消えたというブラックジョーク。
爆撃機の米軍パイロットが、遥か上空から卵チャーハンを炒める白煙を目視できたとは思えないが、これが 11 月 11 日のアリババ「独身の日」に続く、「卵チャーハンの日」の大綱・・・どうか読み捨てて下さい。(了)

文中の見解は全て筆者の個人的意見である。
2019 年(令和元年)11月25日

===引用終わり

中国人にとって卵チャーハンはかなり身近な料理。

果たして今の中国で卵チャーハンにそれほどの歴史的な意味があることを知っている人はいるのだろうか? 

中国を歴史を知る上で非常に参考になる内容だと個人的に思いました。
==>チャーハンの動画もどうぞ  https://youtu.be/_ge8VKCa0JQ